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美味しいものはみんな美味しい? [食べ物に関する疑問]

他人と一緒に食事をするとき、その人の好みと自分の好みが合うかどうかによって、
その食事が美味しくもまずくもなりますよね。
特に自分の好みでないレストランなどに連れて行かれると、
結構しんどいです。

そもそも、味覚というものはどのように形成され、
またどのような差異を持つものなのでしょうか。
「味覚は生まれつきのもの」と言われることもありますが、
それは本当でしょうか?

和食が好きか、洋食が好きか、
エビの天ぷらかエビフライか、
といった問題は、それほど大きな問題ではないように思います。
最近気になっているのは、
「まずいもの」に関する感覚です。
もちろん、人それぞれ、好き嫌いがあります。
僕も、アンチョビとコリアンダーが苦手です。

一方、今日問題にしたいのは、
その料理を「美味しい」と思うか、「美味しくない」と思うかの違いです。

例えば、こんなケースがありました。
職場の先輩と一緒に、お昼ご飯を食べに外に出たときのこと。
フライものを中心とした「日替わり定食」を注文したのですが、
正直なところ、素材が新鮮でないせいか、あまり美味しくないと感じました。
しかしその先輩は、「うまい、うまい」といって、食べていました。

別の機会に、その先輩とまた一緒に食事に出たところ、
「今日もあの店に行こう」といって、上記の店に連れて行かれそうになったので、
「今日は別の店にしませんか」と遮らざるをえないことがありました。

つまるところ、美味しいものは誰にとっても美味しいのだけれど、
実は美味しくないものを「美味しい」と思えてしまう人が、
世の中には少なくないのではないかと、考えるようになりました。

「違いがわからない」「味がわからない」と言われている人は、
美味しいものを美味しいと思えないのではなく、
まずいものでも美味しいと思ってしまう人のことではないでしょうか。
医学的に言って、そのあたりどうなのかは、全くわかりませんが、
どなたかご存じの方、いらっしゃいませんか?

でもよく考えてみると、美味しくないものも美味しいと思える人は、
実は人生ハッピーなのではないかという気がしなくもありません。

一方、少し意地悪気味に考えると、
美味しくないものを美味しいと思う人は、
食材が腐りかけていて体に悪影響を与えてしまうものも
美味しいと言って食べてしまう人かもしれず、
そうなると、生理的な危機管理能力の弱い人と言えるかもしれません。

さらに思考を巡らせていくと、危機管理能力が低いと言うことではなく、
胃の消化能力や解毒機能が優れている人かもしれず、
結局のところ、良いことなのか、悪いことなのか、
永遠に堂々巡りしそうな気がしています(???)


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高いのはガソリンだけか? [身近な経済の疑問]

ガソリンの値段が上昇しています。
週末には、1リットル当たり、130~131円くらいだったでしょうか。
僕は車は週末にしか使いませんが、
毎日使っている人は、ガソリン代が大変でしょう。

ところで、1リットル当たり130円という価格は、
何と比較して高いのでしょうか。
もちろん、過去にガソリンが1リットル100円だったときと比べれば、
30%高くなった、ということができるかもしれません。
ですがそもそも、ガソリンの価格というのは適切だったのでしょうか?

ふと気になって、周りのものを見回してみました。
牛乳1リットル178円。
醤油1リットル158円
そしてミネラルウォーター500mlで135円。

ガソリンは、高いのか、安いのか。


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自己責任、それともメーカーの良心? [日常生活の疑問]

近年、「自己責任」という言葉をよく見かけるようになりました。
渡航自粛勧告の出ているイラクに行って人質となったNPOの人達に対してしかり、
競争社会における「負け組」に対してしかり、
はたまた、夜道で引ったくりにあった女性に対してすらも、
自己防衛の努力を怠った人が悪い、という風潮が蔓延しているように思います。

そこまで、重大な問題ではないものの、
「製品を買った人の使い方の問題」にされてしまっている
問題が多くあると思います。

例えば、携帯用音楽機器。
「ウォークマン」という言い方が一般的になっているようですが、
これはSONYの登録商標。
その他のメーカーからも、CD、MD、それからメモリ内蔵式の
携帯用音楽機器を数え切れないほど発売されています。

この、携帯用音楽機器、
電車の中で大音量で聞いて他人の迷惑になっている人は数知れず、
歩道のない道路で歩きながら聞いている人がいると、
後ろから進んでくる自動車のドライバーは、危なくて仕方ありません。

次に、家庭用ゲーム機器。
小学生の男の子の場合、何かしらのゲーム機器を持っていないと、
友達との話題にも入っていけないような状況になっているようです。
このゲーム機器、勉強もせずに(友人と外で遊ぶこともせずに)
深夜まで熱中してしまうこともしばしばとか。

さらにはゲームセンターやカラオケボックス。
大阪府では、いわゆる「門限条例」というものを制定し、
16歳未満は19時以降にはこうした施設にとどまることができないようにしたそうです。

これらはいずれも、
「ものを買った人の、モラルの責任」
「親のしつけの責任」
ということになっているのですが、果たしてそれだけでよいのでしょうか?

携帯用音楽機器、家庭用ゲーム機器、ゲームセンターのゲームやカラオケ機器を
作成したメーカーの責任というものはないのでしょうか?
売ってしまえば、あとは使用者がどのように使うかまでは責任が取れない、
ということなのかもしれませんが、
これらの製品を作り出し、広く販売しているメーカーの
「良心」というものに、問いかけをしていきたいと思っています。

もちろん、これらの機器が、我々の日常生活に新たな価値や、
娯楽を提供してくれたことは間違いありません。
ですが、そうした製品が、間違ったとまでは言わないまでも、
予期せざる方法で使用された結果、社会に対してなんらかの摩擦を
生じさせてしまっているのであれば、
メーカーサイドは、そうした問題に真摯に対応していく社会的責任が
あるように感じています。

例えば、携帯用音楽機器のイヤホン。
音が外に漏れないようにするための方法は、技術的に考えられそうな気がします。
もし、「音漏れ対応をすると、値段が高くなる」
「デザインが格好悪くなる」
というのであれば、
むしろメーカーはそうしたことにとらわれることなく、
あくまで「音が漏れない」ということに
責任を持って徹底的にこだわってもらいたいと思います。

少なくとも僕は、(小心者であるため、
自分が聞いている音楽の音が他人の迷惑になっていないかと気になるので)、
音の漏れないイヤホンを、絶対に買いたいと思っています。


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警察官が増員される社会とは? [日常生活の疑問]

最近、政治論争が面白いです。
不謹慎なことを言って申し訳ありませんが、
いわゆるBLT(BSE、ライブドア、耐震偽装)の3点セットに
官製談合問題まで発生し、
自民党は苦戦のようです。

そんな中、民主党が2月1日に、
政府与党案への対案として提出した「予算案」に
興味を引かれました。
http://www.dpj.or.jp/seisaku/kan0312/zaimu/BOX_ZAI0116.html

書かれていることは、いずれも興味深い内容のもので、
「小さな政府」「構造改革」を掲げる小泉首相に比べて、
国民に目の向けられた政策が提示されています。

13ページという短い資料であることもあり、
パッパッと読み飛ばしていたのですが、
改めて読み返してみると、
ひとつ気になることがありました。

『「建てもの・食べもの・乗りもの・子ども」の安全を守ります。』
と題された項目の主要事業の中に、
「警察官等増員・・・1300億円(拡充)」
という項目がありました。

たしかに、登下校時の子供の安全を守ったり、
繁華街での暴力行為、
空き巣、引ったくりの類を防ぐためには、
警察官の増員が必要であることはわかります。
国民も、警察官の数が増えれば、
安心が増大する、と考えている人も少なくないと思います。

ですが、よく考えてみたいと思います。
警察官が増加した社会は、何か変ではないでしょうか。
町の至る所に警察官が増えれば、
確かに犯罪は減少するかもしれません。
しかし、警察官がうようよする町を、
我々は歩きたいのでしょうか?

警察官の増員は、民主党のみならず自民党も政策として掲げており、
これは政党に限らず、国民からの期待として
政策に取り入れているのだと思います。

一方で、1300億円という数字。
(実際は、警察官の人数を増加させる以外のことにも、
予算が使われるのでしょうが)
仮に警察官1人を増員するのに、
給与やら制服やら拳銃などの備品等々を併せて、
一人1,300万円のコストがかかったとすると、
1300億円で増員できる人数は1万人。
47都道府県で平均して、1県あたり約212人。

平成16年版警察白書によると、全国の警察職員の数は28万人。
28万人に対して1万人の増加。
これを十分と見るか、少ないと見るか。それとも、多すぎると見るか。


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メールの長さはどれくらいであるべきか? [日常生活の疑問]

電子メール(e-メール)が生活の必需品になってきました。
親しい友人や家族との連絡はもちろん、
ビジネスでの連絡には電子メールが不可欠です。

僕も、平均して1日に100件程度のメールを受け取ります。
もちろん、その中には企業広告もありますので、
実際にきちんと読まなければならないメールは、
50件くらいだと思います。

そのうち、返信が必要なメールは20~30件くらいでしょうか。
よくよく考えてみると、
毎日50件のメールを読んで、そのうち20~30件に返事を出していることを考えると、
1日にたっぷり1時間以上はメールの対応にかけてしまっていることになります。
1件のメールを読むだけで30秒~1分、
返信には1件で1分はかかると思います。

おそらく、世の中には毎日数百件のメールを受け取る人も
少なくないと思われます。
そのような人の場合、メールに費やす時間がどれくらいになるのでしょうか?

そうしたことを考えているうちに、気になることが2つ。
まずは、メールの長さはどの程度であるべきか、
ということです。
忙しい人ほど、メールをたくさん受け取るので、
1件あたりのメールに割ける時間が短くなると思います。
中には数十行のメールを送ってくれる人がいますが、
はっきりいって、全部読むことを強いられるのは苦痛です。

さらに問題なことに、長いメールの最後の方を読み飛ばしていると、
そこに重要なことが書かれていることがあり、
「きちんと読まなかったおまえが悪い」
ということになってしまいます。
これは、「メールの暴力」ではないかと、危惧しています。

もうひとつ。特にビジネス上での問題なのですが、
長々とメールを書く人は、それで仕事をしたつもりになってしまい、
本来の業務がおろそかになっているということ。
メールでのやりとりは、結果的にビジネスのアウトプットには
ほとんどつながりません。
もちろん、緊密に連絡を取ることが悪いわけではありません。
ですが、ニュアンスの問題も含めて、
途中で一度電話で話をすれば、その後のやりとりが大きく省略できることもあります。

このように、ブログを長々と書いてしまうことに対しても、
「ブログ長すぎ」と言われてしまうかもしれませんが、
電子メールの場合は、「要点を簡潔に」「できれば読みやすいように途中で改行し」
「全体で長くとも15行程度で」を目指しています。

皆さんは、普段メールをどのようにお使いですか?


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能力(成果)主義は万能か? [身近な経済の疑問]

ライブドア問題などを報道するテレビ番組や新聞記事を見て、
かねてから疑問に思っていたことが、
自分の頭の中で明確になり始めています。

能力(成果)主義は万能か、ということです。

能力(主義)主義は、そもそも「会社」という共同体の中での「不公平感」
に対する不満を是正するために導入された考え方だと思います。
例えば、終身雇用・年功序列の中で、
先に入社した人の方が役職が高く、給料も高いということに対して
大きな不満が募りました。
能力(成果)主義は、こうした状況を改善し、頑張った人が報われる
「公平な共同体(会社)」を目指すために導入されたのだと、理解しています。

たしかに、こうした考え方が導入された当初は、成功したのだと思います。
若くて能力のある人が生き生きと仕事をし、
会社の業績向上にも貢献したのでしょう。

しかし現在の能力(成果主義)は金儲けのために使われている気がします。
「構造改革・規制緩和」とのセットで、
「法律を犯さなければ何をしても良い」
「人を出し抜いた方が得である」
「誰も気がつかなかったビジネスモデルを考えた俺は、当然その恩恵を受けるべきだ」
という風潮が生み出されてしまったのではないでしょうか。

企業の中でも、
「いかに他者に足を引っ張られないか」、
「自分たちの成果の果実を自分たちのためだけのものに留めておけるか」、
「おこぼれにあずかろうとする人々をいかにして振り払うか」、
ということが重視されてきてしまっているように思います。

また、極限までコストを削減し、他者が何か新しいことを行おうとすると、
「それはお金がかかる(すなわち、自分の取り分が少なくなる)」と反対し、
社員のチャレンジ精神を抑制することになってしまっている気がします。

先日、テレビで報道されていたのですが、
能力(成果)主義を推し進めたライブドアを退職した社員によると、
同社では「ゴミ箱が溢れかえっていても、誰もそれに対処しようとしない」といった、
無関心な空気が蔓延していたそうです。

つまり、公平な社会を作り出すために導入された能力(成果)主義が、
逆に社会不信(相互不信)や無関心を生み出すことになってしまったのだと思います。

能力(成果)主義を、そろそろ私たちは脱却する時期に来ているのではないでしょうか。
もちろん、「年功序列」に回帰してはいけないのだと思います。
「年功序列」→「能力(成果)主義」の次に続く考え方は、
どのようなものになるべきなのでしょうか?


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ライブドア事件とオウム真理教の共通点 [日常生活の疑問]

今日は、素朴な疑問というよりも、
かなり深刻な疑問です。

連日報道されているライブドア事件に関する
新聞記事やテレビでのコメントを見ていると、
どうしてもオウム真理教事件との共通点を感じざるを得ません。

まず、教祖(ホリエモン=麻原)、
これを取り巻く優秀な人々(宮内取締役他今回逮捕された38歳トリオ=オウム大臣たち)
そして、周到に練られた捜査と逮捕劇。

オウム事件が起きた年は、
直前に阪神大震災という非常に大きな災害が起こっており、
日本全体が非常に暗い状況にありました。

今回、ホリエモン事件が起こった直前も、
耐震偽装問題、下流社会問題など、
日本を取り巻く環境は暗いものでした。

オウム真理教も、そしてライブドアも、
(問題を起こしているのだとすれば)正されなければなりません。
ですが、どうもマスコミが事件を作り出していたり、
暗い話題ばかりの世の中に「批判の対象」を作り出しているような気がして仕方ありません。
一般大衆に対して「世の中にはあんなに悪いやつがいる」
という意識を持たせることによって、
自分たちを取り巻く不幸な環境を忘れさせようとするような、
言いようのない「意図」を感じます。

今日の朝日新聞の一面記事の
「一連の仕組みは宮内取締役が考案、実行したとされ...」
というくだりも、
サリン事件の首謀者・実行犯をマスコミが取り上げたときと
同じような表現が使われています。

今回のライブドア事件の背後に、
どのような思惑が存在していたのかということについては、
興味はありません。
むしろこの問題と全く無関係な一般国民やマスコミが、
何か捕らえようのないものに左右され、
危険な方向に導かれているような気がしてなりません。

社会全体が、いいようのない不安感に包まれているように感じるのは、
僕だけでしょうか?


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ワイドショーのコメンテータはこのままで良いのか? [日常生活の疑問]

最近、耐震偽装問題やライブドア問題、
さらには米国産牛肉の問題など、
ワイドショーの話題は尽きません。
同じことを繰り返し放送しているにもかかわらず、
ついつい見てしまうワイドショー。
最近、かなり気になっていることがあります。

ワイドショーには、コメンテータが付き物。
耐震偽装問題では政治家や建築関係の専門家。
ライブドア問題では、株の専門家や商法に詳しい大学教授など。
専門的見地から問題の本質を説明してもらえると、
「ふむふむ、なるほど」と、納得させられることも多いです。

しかし、最近はドラマの脚本家や元スポーツ選手、
露出好きの弁護士や大学教授などが頻繁に登場し、
自らの専門分野でないことにも、平気でコメントをしていますし、
司会者の方も、「なぜこの質問をこのコメンテータにするのか?」と
首を傾げてしまうような場面がしばしばあります。

番組の方も、「できるだけ庶民感覚で」ということで、
話の面白いコメンテータを選んでくるんでしょう。
しかし視聴者は誰も、元スポーツ選手に政治問題に関するコメントを期待していないし、
ドラマの脚本家に、自分のドラマの脚本作りの参考として以上にBSE問題に対する
コメントを期待していません。

確かに、製作者サイドとしては、問題ごとに複数の専門家を集めるよりは、
どんな問題でも無難なコメントをしてくれるコメンテータを重宝しているのかもしれません。
ですが、「そんな低俗なコメント、俺でもしないぞ」
というようなレベルの会話が一般的になってしまうと、
誰もテレビを信用しなくなってしまうのではないかと思います。

ただでさえ、「やらせ」や「つくり」が問題になっているテレビ業界。
少しは娯楽的要素だけでなく、物事の本質に迫るようなアプローチを
とってもらえないものでしょうか。


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ビジネス関係の付き合いで携帯電話の番号を交換するか? [日常生活の疑問]

(先週、祖母が亡くなりました。僕は初孫ということもあり、
とてもかわいがってもらいました。
普段は思い出さない子供の頃の記憶が、鮮やかに蘇ってきました。
祖母の冥福を祈りたいと思います)

ビジネスでの上での付き合いの人も、
中には非常に親密になる場合もあり、
一緒に飲みに行ったり、
年賀状のやりとりをするようになるというケースもあります。

ビジネス上での付き合いがなくなってから、
友人としての付き合いが深まった人もいます。

一方、初対面にもかかわらず、
「また連絡を取りたいので、携帯電話の番号を教えてもらえませんか?」
と要求される機会が増えてきたように思います。
特に、新聞記者。
彼らの業務は、「今日の夕刊に間に合うか」
「明日の朝刊にすべきこませることができるか」
という仕事のためか、オフィスに電話をかけていないとなると、
外出していても確認のための電話を即座にかけたい、
ということなのだと思います。

しかし、初めて会った人に、個人の携帯電話の番号を教えることには、
とても違和感を感じています。
携帯電話番号は、究極の個人情報ではないかと思っています。
プライベートな活動をしているときも、時間や曜日を問わずに
見知らぬ人から電話をかけられては、たまりません。

新聞記者の場合は、残念ながらそうした感覚が麻痺してしまっているのではないかと思いますが、
あまり違和感を持たずに、携帯電話番号を聞くことが常態化してしまっているようです。
もしかしたら、
「○×さん、オフィスにいません。連絡が取れません」と上司に伝えたところ、
「馬鹿野郎、携帯番号を聞いてないのか!」と言うことになってしまっているのかもしれません。

さらに問題なのは、
「携帯電話の番号を教えてもらえませんか」
という要求に対して、
「お断りします」とは言いづらい、ということがあります。

他人からの要求を拒絶するということは、
それほど簡単なことではありません。
初対面の人から、
「お金を貸してくれませんか?」
「マンションを購入しませんか?」
と要求されても、即座に拒否することができます(できない方もいるかもしれませんが)。

ですが、「携帯電話の番号を教えてもらえませんか」
と聞かれたとき、それがイヤであっても、
どのように拒否すればよいのか、
丁寧な断り方はどうすればよいのか、
はたまた、携帯電話番号を教えることを拒絶すれば、
「この人は、とても冷たい(協力的でない)人だな」と思われてしまわないかなど、
とても難しい問題が一瞬のうちに脳裏を駆けめぐり、
人は混乱してしまうのではないかと思います。

携帯電話の存在は、日常生活をとても便利にしました。
ビジネスの上でも、不可欠なツールになっています。
ですが、携帯電話の普及があまりにも急だったため、
携帯電話に関連する「思いやり」「礼儀」「マナー」が、
まだ社会全体の共通認識となっていないように思います。

こればっかりは、法律でルールを定めることもできず、
日常生活の中で「常識」が形成されるんでしょうね。
どなたか、気鋭の若手社会学者などが、
このあたりの問題に、きちんとメスを入れて欲しいな、と思っています。


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ビールに関する果てしない疑問 [身近な経済の疑問]

仕事の後のビール、美味しいですよね。
年末年始も、だいぶお世話になりました。

最近は、ビールも色々な種類があるようで、
いわゆる「ビール」の他、「発泡酒」や「第3のビール」というものまであります。
食べ物、飲み物の味にはうるさいほうだと思っているのですが、
これら「ビール」「発泡酒」「第3のビール」の味の区別がつきません。
特にキリっと冷やしてあると、安いビールでも美味しく感じます。

これらの各種ビール、税金の違いによってだいぶ小売単価が異なるようです。
ビールの税金が麦芽の含有量で異なるのは、日本に特殊な制度らしく、
諸外国ではアルコール度数で税金が異なるそうです。

最近では、発泡酒の税率が上げられたばかりか、
「第3のビール」の増税も検討されているそうで、
メーカー各社からは
「法律の枠内で正しいことをしているのに、
後出しで制度が変わってしまえば民間企業の研究開発意欲を削ぐ」
といった批判が表明されています。
もっともだと思います。

ビール会社に勤める知り合いによると、
飲食店では発泡酒を「生ビール」と称して販売しても、
法律違反ではないとのこと。
我々は、何を飲まされているのか、わかりません。

僕からしてみれば、麦芽の含有量による違いよりも、
「黄色い普通のビール」(これを「普通」と称すること自体がグローバルスタンダードではないのかもしれませんが)、「黒ビール」「白ビール」の違いの方が、
別のお酒のような違いだと思うのですが。

それから、話は変わりますが、「生ビール」という呼び方。
なぜ、「瓶ビール」に対して「生ビール」なのでしょうか?
瓶ビールとして販売されているほとんどのビールが、
熱処理加工されていない「生」ビールのはずです。
「瓶ビール」に対しては「ジョッキビール」ではないでしょうか。

さらに脱線は続きますが、似たような疑問として、車の変速のタイプ。
「オートマチック車(オートマ車)」に対して「マニュアル車」というものがありますが、
この「マニュアル車」を「オートマ」に対して「ミッション」と呼ぶ人が、
僕の周りにも多数います。
オートマチック車も、正式には「オートマチック・トランスミッション車」であり、
「ミッション」という言い方は、
変速機の種類の違いに何も言及していないと思うのですが。
何か深い意味があるようであれば、教えてください。

脱線が長くなりましたが、
最近は税金が不足しているとかで、何でも増税の方向に向かっているのは、
納得できません。
「発泡酒」等の増税に対して「ビール」が減税されているとはいえ、減税の幅はごくわずか。
「税の公平性」よりも、「いかに多くの税金を取るか」
ということに、政府の関心があるように思います。

仕事の後は、ビールも発泡酒も第3のビールもうまい。
それを、できるだけ安く飲ませてくれれば、文句はないんですけどね。


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